呉市立美術館
平成30年度 呉市立美術館コレクション展掘峩薪擇虜邁箸燭繊 平成31年1月6日(日)〜3月24日(日) | 近現代の美術作品を所蔵し特別展も開催|呉市立美術館

開館時間

●10時〜17時
(入館は16時30分まで)

休館日

●毎週火曜日
(火曜が祝日・振替休日の場合は、その翌日)
●年末・年始(12月29日〜1月3日)
※展示替え等で臨時に休館する場合があります
 
は休館日
 
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平成30年度 第3期 コレクション展

郷土の作家たち

平成31年1月6日(日)〜3月24日(日)

                                                                            

 本展では、「呉に生まれる」「呉で活動」「呉を描く」など当館が所蔵する「呉」ゆかりの43作家の作品により、戦前・戦後から現代にかけての呉美術の諸相を紹介します。
 南画の伝統を近代に伝えた手島呉東(1862〜1936)、戦前日本洋画界の巨匠・南薫造(1883〜1950)を筆頭に、朝井清(版画、1901〜1968)、長田健雄(水彩画、1901〜1940)、宇根元警(油彩画、1904〜1970)らが中心となって戦前における呉美術の基礎が築かれ、藤川九郎(水彩画、1912〜1991)、生田正雄(水彩画、1907〜1999)、空野八百蔵(油彩画、1916〜1993)、船田玉樹(日本画、1912〜1991)らが加わって呉美術協会が設立されるなど戦後美術の復興が図られました。その後、現代にかけては、抽象画に屹立する作風を打ち立てた岡部繁夫(1912〜1969)、木版画と木彫に独自の境地を切り拓いた水船六洲(1912〜1980)、数奇な運命を辿ってメルヘン画家として大成したミネ・クレイン(1917〜1992)など、そして、野呂山芸術村に集まった日本及び世界各地の画家たちが、多彩な花を咲かせました。さながら日本近代美術史の縮図のようなバラエティに富んだ技法・素材・表現法による密度の高い作品群、そして呉ならではのテーマをお楽しみいただけます。
 また、本展では、今年度当館で高校生キュレーターとして活動した高校生たちが推奨する作品を交えて展示します。ご来館の皆さまには、美術を通してあらためて郷土・呉に向き合っていただきながら、高校生たちとともに呉美術の宝物を見つけていただければ幸いです。
 展示構成のコーナーで展示作品の一部をご紹介します。解説は高校生キュレーターと本展担当学芸員が担当しました。各作品の解説文末尾の<>内に執筆者を記載しています。

関連イベント

※申込不要、参加費無料
(ただし展覧会のチケットが必要です。)

.ャラリートーク
 展示の見どころを学芸員と高校生キュレーターが解説します。
 日時:1月26日(土)、2月9日(土)各日14:00〜

▲◆璽肇リエンテーリング
 小学生を対象にしたクイズ形式のワークシートを受付で配布します。
 ご家族で楽しく鑑賞してみませんか。

アンケート”見つけよう!呉美術の宝物”
 ご来館の皆さまの”一押し”作品をお知らせください。感動と感想を共有しましょう。

展示構成

第1章 戦前、呉美術の基礎を築いた作家たち

 明治40年に国において文部省美術展覧会が創設されて以後、大正5年には広島県美術展覧会が創設されるなど、近代的な美術振興の動きは中央から地方へと広がっていきました。
 ここ呉においても、大正6年に書や日本画を中心とする呉美術協会(戦後の同名会とは別団体)が設立され、昭和3年頃に海軍士官と呉市内教員による洋画団体であるポベニエ会、昭和6年に呉市内教員を中心とする水彩画団体の互(ごっ)歩(ほ)会(かい)が発会するなど、呉地域における組織的な美術振興の基礎が形作られていきました。
 戦前、呉美術のパイオニアとして活躍した作家は、彫刻の上田直次(1880-1953、美術館通り《愛に生きる》の作者)、日本画の手島呉東、水彩画の長田健雄、洋画の南薫造・朝井清(のち版画に転向)・宇根元警などでした。


手島呉東 作 《山水》 紙本墨画 1932年 61.0×179.1
展示作品から(その1)
 作者の手島呉東(1862年〜1936年は現在の呉市仁方町に生まれました。本名は謹一郎。仁方町が呉の東にあることから「呉東」と号しました。幼い頃から詩画を好み、大阪に出て南画の大家・森琴石に学びました。大正末頃、美術団体・二級美術院に参加するなど呉を拠点としながら、諸国を遊歴して画技を磨き、山水画を得意としました。粟田扇山(志和)や出野曦山(海田)など多くの弟子を育てたたようです。昭和5年に発行された当時の大家百人を収録した『日本名画家選』に横山大観・小林古径らと並んで紹介され、「独立大家」と評されました。本作では山や渓谷に加えて、松の向こうに瀬戸内海と思われる海を描いています。脱俗の理想郷を描く南画の世界にも、呉出身者らしいビジョンが感じられます。 <当館学芸員 宮本>

南 薫造 作 《庭》 油彩・画布 1947年 65.2×80.3
展示作品から(その2)
 作者の南薫造(1883年〜1950年)は現在の呉市安浦町の出身。東京美術学校を1907年に卒業後イギリスへ留学。1910年に帰国後は、初期文展を舞台に受賞を重ね、衆目を集めました。その後も官展を中心に活躍し、1932年から43年まで東京美術学校教授に就任。また、帝国芸術院会員、帝室技芸員を歴任し、日本の美術界で重きをなしました。戦時中に疎開して以後は安浦に留まり、広島県の美術振興に貢献しました。明るく穏やかな作風から「日本の印象派」と言われました。
 庭の椅子に座る少女は、作者の孫娘。前景に手摺が描かれていることから、庭をバルコニーのような所から眺めた光景と思われ、この視点で捉えた構図が遠近法で描かれた庭の奥行きをさらに引き立てていると感じました。全体的に明るい色で描かれており、中央に紫陽花の咲く庭に、陽光がふりそそぐ様子が表現されています。孫娘を見る作者の暖かなまなざしが感じられ、日常生活のワンシーンの中に平和の大切さが表されています。 <呉工業高等専門学校4年 吉藤>

朝井 清 作 《大阪住吉祭》 1961年 木版・紙 131.5×91.1
展示作品から(その3)
 作者の朝井清は明治34(1901)年に呉市に生まれました(1968年没)。大正3年に呉海軍工廠に就職。大正8年に油絵を、昭和に入ってから版画を独学で身に付けました。昭和初期のポベニエ会を始め、戦後の芸南文化同人会や呉美術協会では中心的な役割を務め、呉美術界のリーダーとして活躍しました。日展や東光会、日本版画会など精力的に各種展覧会に出品し、戦後はお祭りを題材に巨大な多色摺り版画を多数制作し、版画家で友人の棟方志功は「我が国、木版画の雄渾卓抜、絶対の妙手」と絶賛しました。
 この作品は大阪の住吉祭を描いた木版画で、輪郭線がとても細かく、そして力強く彫り表されていて、橋や御神輿の存在感がずっしりと伝わってきます。また、大勢の人々が描かれていますが、一人一人の表情が活き活きとしていて、今にもにぎやかな人々の声が聞こえてきそうです。使われている色は暖色が多く、黒い輪郭線とのコントラストで鮮やかさが際立ち、お祭りの熱気とパワーが感じられます。 
<呉宮原高等学校1年 小川>

第2章 戦前から戦後へ、呉美術を継承・発展させた作家たち

 空野八百蔵らポベニエ会の独立美術協会系作家により昭和11年に呉独立美術研究会が結成されるなど、個性ある美術活動が見られましたが、戦争の激化に伴い、呉地域の美術団体は昭和17年に、呉海軍が後援する呉海洋美術協会に統合され、挙国一致体制へと組み込まれました。
 戦後いち早く昭和21年2月に芸南文化同人会(顧問:南薫造)が発会して呉美術界をリードし、同年11月には同会ほか裸身会・白玄会などを発起人として総合的美術団体である呉美術協会(副会長:朝井清、理事:藤川九郎・空野八百蔵・生田正雄・船田玉樹、戦前の同名会とは別団体)が結成され、以後、呉美術界は同協会を中心に展開しました。
 その他、池田栄廣・岡部繁夫・水船六洲・益井三重子らが、戦前に引き続き、戦後さらに広域的な活動で自らの芸術を開花させていきました。

梶田英一 作 《手芸する女》 油彩・画布 1955年 145.5×97.3
展示作品から(その1)
 僕がこの作品を見て感じた第一印象は、実家に帰った時のような懐かしい印象です。暖色系の色が多く使われており、温かい感じがします。作者はしばしば、ありふれた日常風景の一部を切り取り、人物画を描きました。本作では、机の上に女の子の人形があり、この女性は手芸が趣味で、この日もいつも通り手芸をしているのだと思われます。作者は、このような日常風景を描くことで、「懐かしい」「温かい」感情を表現したかったのではないかと思います。僕の母も、普段から手芸をしており、小学生の時に家に帰ると、編み物をしている母の思い出があるため、この作品を見た時に懐かしいな、と感じました。
 作者の梶田英一は呉市に生まれました。東京美術学校で藤島武二、寺内萬治郎に学び、1941年に卒業。光風会展を軸に、戦前は官展、戦後は日展に出品し、1952年光風会展でS氏賞、1959年新日展で特選を受賞したほか、呉と東京で毎年のように個展を開催しました。 
<呉工業高等専門学校4年 森>


空野八百蔵 作 《聖堂》 油彩・画布 1965年 162.3×130.5
展示作品から(その2)
 作者の空野八百蔵は呉市警固屋に生まれ、小学3年生の頃から、絵を学びました。大阪や東京で腕を磨き、独立美術協会展という歴史ある展覧会に出品し続け、受賞を重ねました。1938年から’76年まで東京で活動し、広島に帰郷。地元呉とも繋がりを持ち続け、美術振興に貢献しました。 
 そして、海外経験も豊富で、特に通算5年間、芸術の都・パリに滞在して絵の修行をしたので、ヨーロッパの文化から大きな影響を受けたのだと思います。この作品は、ノートルダム大聖堂などゴシック建築の教会に見られるステンドグラスの窓をクローズアップして描いています。この作品を見て、最初に、紫や赤など塗り重ねられた鮮やかな色の美しさに魅力を感じました。窓のステンドグラスの色彩が画面全体に広がり、輝いています。
 作者は「見る人に潤いや助けを与える」ことを願って絵を描いたそうです。皆さんにもこの絵のファンタジックな美しさに、作者の願いを感じ取っていただきたいと思います。 <熊野高等学校2年 山田>

岡部繁夫 作 《作品UXY″》 油彩・画布 1967年 182.5×222.7
展示作品から(その3)
 作者の岡部繁夫(1912年〜1969年)は呉市広長浜に生まれました。1930年に上京して兄とともに鉄工所を営む傍ら、油絵を独学し、独立美術協会の鈴木保徳らに師事。独立展のほか広島県美術展に出品するなど故郷と繋がりを持ちながら活動しました。1950年に独立賞を受賞するなど実績を積み、1963年『芸術新潮』ベストテンに挙げられて以後は日本現代美術を代表する作家の1人として日本国際美術展など多くの展覧会に招待出品されました。
 物語的ではない絵画としての構成・材質・技術の強さを求めて、初期の超現実的具象絵画から、キュビズム、抽象画へと作風が変遷。真のオリジナル(独創)を追求し、油絵具の粘性を生かして、絵具を立体的に造形する独特の抽象画を創出しました。本作では平板な色帯が青色の絵具の隆起を一層際立たせ、絵画世界が現実世界に突出しています。 
<当館学芸員 宮本>

第3章 戦後から現代にかけて、そして未来へ

 地元呉では、呉美術協会を中心に、ヤネウラ美術同人(安久一郎、後に青年美術家グループと改名)、創画会(宇根元警)、水彩連盟呉支部(藤川九郎・生田正雄)、呉勤労者美術協会(原 開)、呉美術の会(原 開)、呉日本画協会(船田玉樹)、日本画土曜会(其阿弥赫土)、いおり会日本画展(福原匠一)、呉陶芸会(黒川清雪)、呉写真団体連合会などが発足し、中央美術界とのつながりを持ちながら、各分野にわたり、多彩な美術活動を展開しました。
 また、画家・ミネ・クレインや写真家・迫幸一らが海外に活動領域を広げ、国際的にも高く評価される一方、野呂山芸術村においては国内外の美術家を招聘し、創作の場を提供するとともに、地域の文化振興が図られました。
 こうした文化的土壌から、今後さらなる呉美術の発展が期待されます。

小野川幹雄 作 《広丸》 水彩・紙 1980年 117.0×91.5
展示作品から(その1)
 作者の小野川幹雄(1929年〜2001年)は呉市今西通に生まれました。戦後まもなく上京し、東京農業大学に入学。大学の美術の授業で水彩連盟の春日部たすくに出会い、卒業後、呉市役所に就職後も引き続き指導を受けました。呉市美術展や広島県美術展で受賞を重ね、水彩連盟展では1956年みづゑ賞、1958年三宅賞を受賞し、1961年会員に推挙されました。呉公民館や天満屋広島店でしばしば個展を開催。1992年呉市芸術文化功労賞を受賞。呉美術協会役員を務めました。
 「地道に、素朴な風景と人間とのかかわりを描いていきたい。自分の体質に合った心象風景を」と語っています。晩年は細かな点や線を集積する描写法となり、この描法により港の夜景を描いた本作では、闇に閉ざされた海上空間とその中の船の存在感が表現されています。<当館学芸員 宮本>


星加哲男 作 《ZOO》 油彩・画布 1981年 130.5×162.3
展示作品から(その2) 
 作者の星加哲男さん(1951年〜)は呉市に生まれました。新協美術会に所属して受賞を重ねましたが、広島県美術展、ひろしま美術大賞展、しんわ美術展、青木繁記念大賞展など、各種の公募展に挑戦して多くの賞を獲得しました。初期の紙(かみ)をモチーフとした作品からトマトが群生する作品へと作風が変化しましたが、自分自身の不安感や再生への願いを「リアルに対象を追求する姿勢」で「描き込んで」表現する姿勢は一貫しているように思われます。
 この作品では、青空と草原の明るい風景の中、紙でできた象(ぞう)を幼い子どもが見上げています。紙の皺や陰影がリアルに描かれ、風に吹き飛ばされてしまいそうなペラペラの象ですが、鎖に囲われ、繋がれています。作者は「子どもは3歳くらいの時の長女がモデル。鎖は、子どもの居場所(環境)が閉ざされていることを象徴している。」と語っています。のどかな空想の中の一場面のようであり、ユーモラスである反面ゾッとさせられる情景です。 
<呉宮原高等学校1年 田村>

ミネ・クレイン 作 《夕焼け》 油彩・画布 1982年 178.4×203.5
展示作品から(その3) 
 この作品には作者の世界観が丁寧に描かれています。子どもが象(かたど)るような木々には無数の枝があり、リアルな梟(ふくろう)が描かれています。夕焼け空は橙色を主体に様々な色が用いられて遥かな奥行が表現される一方、影は描かれていません。独学で絵を学んだ作者ならではの、童話のような、子どもの絵の特性と画家としての技量を兼ねそえた作風です。また、人物が描かれず、遠くを見つめるような高い視線でとらえた構図から、寂しさを感じさせます。
 作者のミネ・クレイン(1917年〜1992年)は呉市出身で、祖父・曾祖父は貴族院議員、叔父は呉市長を務めるなど、広島屈指の名家に生まれました。38歳のときアメリカの大富豪クレイン家に嫁ぎ、豊かで幸せな年月を送りましたが、結婚7年後に夫と死別。50歳を過ぎてから絵を描き始めて絶望から救われ、やがてメルヘン画家として日米欧で脚光を浴びるようになりました。アメリカでの愛犬の名はハチとポチ。日本人の誇りを胸に生きていたことが偲ばれます。 <呉工業高等専門学校4年 中下>

其阿弥赫土 作 《雲辺寺》 紙本彩色 1983年 182.2×136.7
展示作品から(その4) 
 作者の其阿弥赫土(1925年〜)さんは呉市西原町に生まれ、呉二中(現・呉宮原)から東京美術学校に入学し、日本画を学びました。在学中に学徒動員され、美術学校を中退、戦後は帰郷して阿賀中学校等で教鞭をとる傍ら創作に励みました。1949年及び翌1950年に広島県美術展で知事賞を連続受賞、1950年から1967年まで創造美術展を経て新制作展に出品し、5回受賞を重ねました。その間、教職を辞して1957年から1963年にかけて、京都・奈良で画技を研鑽。その後、広島県日本画懇話会を設立し、呉美術協会会員等として地域における美術文化の振興に貢献。1981年に呉市文化功労賞、1989年には国際芸術文化賞(日本文化振興会)、日本芸術作家賞(日本美術出版)を受賞するなどその功績は高く評価されました。
 作者は創作の基本として際限なく写生を繰り返しますが、最終的には対象をあるがままにではなく、その本質や精神性を心象として昇華し、画面に浮かび上がらせます。描いた上を胡粉で覆いながら筆を重ね、画像を積層させる独特な手法により、幽玄な世界を現出させています。 <当館学芸員 宮本>


大畑稔浩 作 《川尻と瀬戸内海》 2001年 油彩・画布 97.0×227.0僉\鄂市民センター所蔵
展示作品から(その5)
 作者の大畑稔浩さん(1960年〜)はリアリズムを追求する画家です。島根県に生まれ、高校卒業後は就職して公務員になりましたが、20歳で退職し、2年後に東京藝術大学に入学しました。卒業時に白日会で白日賞と文部大臣賞を受賞するなど実績を積みました。1996年から7年間、野呂山芸術村に滞在しました。野呂山山頂の芸術村は自然の四季を体で感じることができ、モチーフに事欠かず、絵を描く環境においては最高のアトリエだったと語っています。
 この作品は野呂山から見た川尻の風景で、半年かけて描かれました。作者は「構想時に左手奥のしまなみ海道が開通し、描いている間に、右手手前の安芸灘大橋が完成しました。この絵は夏から描き初め、終了時は冬になっていました」と語っています。写実的ですが写真とは違う「動き」が感じられる作品です。雲や水の流れ、風に吹かれる植物の動きなど、実際に瀬戸内海を眺めているような穏やかな気分にさせられます。<呉宮原高等学校1年 中原>

中本侑孝 作 《坂のまち 04》 油彩・画布 2004年 162.1×130.3
展示作品から(その6)
 この作品は、斜面にある町を描いており、階段が多いのでかなり急な坂だと分かります。作者は呉市出身で、呉に多い山の斜面にあるまちをイメージして描いたものではないかと思われます。
 全体的には暗めの寒色系で描かれ、中央部はオレンジや白などの明るめの色で描かれています。寒色系統を中心とした色使いや人通りの少なさから物静かな印象を受け、昼間の雰囲気とは異なる、夜が少しずつ明けてまちが白みだす頃の、特別な静けさを表現しているように感じられます。階段が多く、生活には不便かもしれませんが、この風景から感じられる懐かしさや穏やかな雰囲気は、作者のこのまち「呉」への愛情を感じさせます。
 作者の中本侑孝は、呉市東惣付町に生まれ、教職の傍ら創作活動に励みました。広島県美展や呉市美術展のほか、全国規模の展覧会でも入選・受賞し、2001年呉市芸術文化功労賞を受賞しました。 <呉工業高等専門学校4年 坂井>

マシュー・フィン 作 《大重岩》 2005年 水彩・紙 115×166僉\鄂市民センター蔵
展示作品から(その7)
 作者のマシュー・フィンはイギリス・ヨークシャーに生まれました。リーズ大学芸術学部で学び、卒業時には同大学芸術賞アラン・ハーモン賞を受賞しました。2001年に来日し、2004年に野呂山芸術村に入村して5年間滞在し、川尻筆を愛用して制作しました。その後は日本とイギリスで活動し、日本では日本水彩画会に所属し、イギリスでは王立水彩画展などで受賞を重ねています。彼の作品は透明水彩だけで描くイギリスの正統派水彩画の伝統と、水墨画など日本美術の要素の二つが組み合わされ、独特の雰囲気を作り出しています。
 私はこの作品を見て一目惚れしました。いつ見ても飽きることのない自然の美しさが伝わって来て、見れば見るほど絵画から鳥の綺麗な鳴き声や風に吹かれて木がガサガサと音をたてているのが聞こえてきそうです。作者自身が「見てくれた人が美しいと感じ印象に残る絵を描きたい」と語るとおり、彼の絵画はだれが見ても美しいと思える作品だと思います。 <呉宮原高等学校1年 岡部>
 
 本作には、来館者アンケートでも「白が目立ち明るくて日光がすごく当たっているように見えた」「(絵具を塗らずに)残された(紙の色の)白が森に差す光をしっかり表現」「太陽の光と石と木がとても眩しくて、ひたるように見ていたい」と多くの感想をいただき、来館者の皆さまの心を魅了しました。ツイッターで配信できなかったので、こちらで紹介させていただきます。

※ この作品の画像は館員が撮影したもので、やや歪みがあります。掲載については作者の了承を得ています。