呉市立美術館
令和2年度呉市立美術館コレクション展機嵋弩70年 南薫造をしのんで」【併設展示】益井三重子 令和2年7月4日(土)〜8月23日(日) | 近現代の美術作品を所蔵し特別展も開催|呉市立美術館

開館時間

●10時〜17時
(入館は16時30分まで)

休館日

●毎週火曜日
(火曜が祝日・振替休日の場合は、その翌日)
●年末・年始(12月29日〜1月3日)
※展示替え等で臨時に休館する場合があります
 
は休館日
 
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呉の美術
没後70年 南薫造をしのぶ
〈小特集〉益井三重子

会場呉市立美術館1階展示室
開館時間10時〜17時(入館は16時30分まで)
休館日火曜日
入館料一般300(240)円 高校生180(140)円 小中生120(90)円

※( )内は20名以上の団体料金。広島県中央地域連携中枢都市圏(呉市、竹原市、東広島市、江田島市、海田町、熊野町、坂町、大崎上島町)に在住の高校生以下、呉市在住の70歳以上、はたちのパスポート、障害者手帳等をお持ちの方は無料(要証明書)。

没後70年 南薫造をしのぶ

 南薫造は、1883(明治16)年に広島県賀茂郡内海町(現・呉市安浦町)に生まれました。東京美術学校を卒業後、イギリスやフランスで西洋画の研究を深めた南は、人物や自然を、穏やかで滋味深いまなざしで捉え、「日本の印象派」と評されました。東京美術学校教授、帝国芸術院会員、帝室技芸員などを歴任し、日本の近代洋画史に大きな足跡を残すとともに、呉や広島の美術の振興に貢献しました。また南は作風同様に人柄も温厚で、画家仲間や教え子など多くの人々から慕われ、尊敬されました。
 2020年は南の没後70年にあたります。本展では当館の所蔵する南薫造の油彩画、水彩画、版画、素描を一堂に展示するほか、南と交流のあった画家たちの作品を交えて、南の画業や生きた時代をたどります。

1 イギリス留学と帰国後の活動

《牧草を刈る》1921(大正10)年
《大震災後の東京機1923(大正12)年
 1907(明治40)年3月に東京美術学校を卒業した南は、同年10月からイギリスの、ウェスタン・ポリテクニック(現・チェルシー美術学校)へ留学します。留学中は、高村光太郎や、東京美術学校の後輩である富本憲吉らと交流を深めたほか、欧州各国へ写生旅行に出かけ、実り多い日々を過ごしました。
 1910(明治43)年4月に帰国した南は、黒田清輝らによって結成された洋画団体「白馬会」や、大正期にヨーロッパの美術を積極的に日本で紹介した雑誌『白樺』を舞台に、精力的な創作活動を行います。また、文展や光風会展への出品、受賞を重ね、1916(大正5)年の第10回文展では弱冠33歳にして審査員に推挙され、画壇での地位を確立していきます。
 関東大震災後の1924(大正13)年には、川島理一郎や小寺健吉、辻永らと「白日会」を結成。震災後の混迷状態のなか、日本洋画の復興を目指し、同年3月に第1回展を開催しました。南自身は1926(大正15)年に白日会を脱退しますが、会のメンバーとはその後も親しく交流し、国内外の各地へ共に写生旅行へ出かけていました。


★南薫造と版画
 明治末期からの新たな美術の動向として「自画・自刻・自摺」を掲げる「創作版画運動」が挙げられます。伝統的な木版画の制作工程を、分業ではなくすべて画家自身が行うこの運動では、元来版画家として活動していなかった画家たちも、新たな表現手段として版画制作へ取り組むようになりました。南も1910(明治43)年ごろから木版画を好んで制作しました。
 1911(明治44)年1月、南は高村光太郎の経営する画廊・瑯玕堂(ろうかんどう)で木版画作品の展覧会を開催しました。前川千帆は、南の版画を真似て版画制作を始めたと回顧しており、若い画家にも大きな影響を与えました。

2 東京美術学校教授としての南薫造

南薫造《秋草》
1935(昭和10)年
荻太郎《歴史》
1960(昭和35)年
 1932(昭和7)年9月、南は東京美術学校西洋画科の教授となり、後進の指導にあたることとなりました。
 この時期の南は、1936(昭和11)年、明治神宮外苑に設置された聖徳記念絵画館内の、明治天皇の一代記を伝える壁画制作への参加や、翌年の海軍館絵画室への作品寄贈など、国家的事業に関わる制作活動が増えています。また、1937(昭和12)年に帝国芸術院会員に推挙され、名実ともに日本画壇の巨匠のひとりとして重きをなしました。
 しかし学生たちにとっての「南先生」は、堅苦しい人物ではなかったようです。南教室は自由で大らかな気風があり、野見山暁治、荻太郎、新延輝雄、渡辺武夫などが在籍しましたが、在学中から別の画家に師事する者もいました。南はそうした学生を突き放すことなく、渡辺武夫の言葉を借りれば「遠くからいつも見守って下さった」といいます。学生たちは、南の下で学べることを誇りにしていました。
 ただ、この頃世相は戦争への道を突き進んでおり、南教室の卒業生にも、戦争の犠牲となった者が少なからず含まれます。南自身、1943(昭和18)年に教授職を辞したのちに郷里の内海町へ疎開しますが、東京大空襲によって自宅・アトリエを焼失するなど、大切な教え子のほかにも多くを失いました。
《安浦風景》
1947(昭和22)年頃
★南薫造と水彩画
 南は油彩画と同様に水彩画にも優れ、画業を通じて水彩作品を多数残しています。南は自然にある色や形をただ写すのではなく、自然の持つ「神秘」や「意味」を作品で表現するのが美術家の要件であると考えており、水彩画はそれを達成するのに適した手段でもあったのでしょう。1913(大正2)年、石井柏亭らが結成した日本水彩画会の立ち上げに南も関わっており、毎年のように作品を出品しました。
 1930(昭和5)年には、『水彩画の描き方』(崇文堂)を上梓しています。ここでみなみは、水彩画制作に必要な道具からひとつひとつ丁寧に解説し、構図についてはもちろん、静物や人物などの具体的な描き方に至るまで幅広く取り上げています。

小特集 益井三重子

 益井三重子は1910(明治43)年に呉市で生まれ、再興日本美術院展覧会(院展)を中心に活躍した日本画家です。県立呉第一高等女学校在学中に日本画を学び始め、18歳で広島県美術展に初入選するなど、早くから画家としての頭角を現しました。戦後は神奈川県大船を拠点に、安田靫彦(1884-1978)、小倉遊亀(1895-2000)の薫陶を受けながら創作活動を続け、1971(昭和46)年に日本美術院特待となりました。
 益井は特に人物の描写を得意とし、身近にいる人たちをモデルに、その人物の人となりまで伝わってくるような優れた肖像画を多く描いています。伝統的な技法を基礎とする丁寧な筆致で対象を捉えながらも、現代的な視点で捉えたモダンな表現が融合し、平明で情感豊かな益井様式とも呼ぶべき独自のスタイルを打ち立てました。
 このたびの小特集では、益井の画業を代表する人物画を中心に、京都の古寺や能楽に取材した作品を展示するほか、令和元年度に新たに収蔵した作品をお披露目することにより、一層充実した当館のコレクションを通じて益井作品の多彩な魅力をご紹介します。