呉市立美術館
近現代の美術作品を所蔵し特別展も開催|呉市立美術館

開館時間

●10時〜17時
(入館は16時30分まで)

休館日

●毎週火曜日
(火曜が祝日・振替休日の場合は、その翌日)
●年末・年始(12月29日〜1月3日)
※展示替え等で臨時に休館する場合があります
 
は休館日
 
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TOPページ > 教育普及 > リモートミュージアム > その2 南薫造《庭》

リモートミュージアム 呉市美コレクションであそぼう!

(その2)まとめ

呉市立美術館では、オンラインコンテンツとして、所蔵作品をおうちで楽しむ「リモートミュージアム 呉市美コレクションであそぼう!」を開催しています。

今後も毎月1点のペースで、作品をご紹介していく予定です。

「リモートミュージアム 呉市美コレクションであそぼう!」(その2)

内容:呉市立美術館の所蔵作品を使ったクイズ(絵解き)
参加方法:Google Formを使ったアンケート回答
参加受付期間:6月24日(水)〜8月5日(水)

第2回のお題は、南薫造の《庭》です。

南薫造《庭》
1947年 油彩・画布 65.2×80.3cm
呉市立美術館蔵

Q1:この作品には、どのようなものが描かれていますか。よく観察して、見つけたものを挙げてください。

皆さんから挙げていただいたモチーフを列挙してみます。

・椅子に寝そべる女の子

・太い樹木

・飛び石

・アサガオ

・アジサイ

・ショウブ

・他たくさんの植物

・座椅子

・庭石

・ベランダ(手すり)

庭に椅子を置き、そこに寝そべる白いワンピースの少女は、作者の孫娘をモデルに描かれています。第二次世界大戦中に疎開していた内海の実家には、南の長女・次女の家族も身を寄せており、孫とも一緒に生活していました。
少女の周囲には朝顔などの花や草木がたくさん植えられており、それなりの広さを感じさせる庭です。画面の手前にはベランダの手すりが描かれており、作者はベランダから孫娘を見ているのだと想像できます。

Q2:作品の中の季節はいつ頃だと思いますか。理由を含めて、自由に記述してください。

・初夏(7月ごろ)。夏を感じさせる植物と、半袖ワンピースでくつろぐ少女の姿からそう思いました。(ガンベッティ さん)

・少女の服装や絵全体の雰囲気から「夏」(hiro さん)

・アジサイとアサガオが描かれているから6月〜7月頃。(海が好き さん)

皆さんは、庭に咲いている花の種類や、少女が半袖のワンピースを着ていることから、6〜7月頃だと連想してくださいました。草の青々とした様子に白いワンピースが映えて、爽やかな初夏を想起させますね。

Q3:画面にはひとりの少女が描かれています。彼女は庭で何をしているのだと思いますか。あるいは、どのようなことを考えていると思いますか。自由に記述してください。

・暇な時間を庭で過ごしている。庭の花やもしかしたら自宅を眺めている。とくにすることもない。あるいはどこかへ出かけたあと、もしくは出かける前のちょっとした時間に、楽しかった時間を思い返したり、これから過ごすであろう時間を想像している。(ガンベッティ さん)

・夏の午前中に庭で休んでいる風景、足を組むなど少し大人になった気分で、おませな(恰好をつけた)感じでくつろいでいる。ほほえましい、温かい絵(hiro さん)

・この女の子は、学校で友達と口喧嘩をしてしまった。帰宅し、お気に入りの洋服に着替えても気分は晴れない。相手もいないので遊びにも行かず、後味の悪い気持ちでつまらなさそうに見慣れた庭を眺めている。この絵は、そんな娘をすこし心配そうに見守る親の目線で描かれている。(海が好き さん)

少女の遠くを見つめる視線や、大人びた表情、足を組んで格好をつけたようなポーズなどから、彼女の心の奥底にある気持ちも想像したくなります。作品を鑑賞しての、三者三様の解釈が面白いですね。

リモートミュージアムの感想や、作品に関する質問などあればご記入ください。(自由回答)

・いろいろと情景が想像しやすい作品で楽しかったです。(ガンベッティ さん)

・よい取組だと思う。今後とも作品の見方、南薫造など呉ゆかりの作家の作品の魅力、美術館の魅力をこうした取組で発信・紹介してほしいと思う。(hiro さん)

・専用フォームなので申込しやすいと思いました。次回も楽しみにしています。(海が好き さん)

「リモートミュージアム 呉市美コレクションであそぼう!」
(その3)は8月中に公開予定です。

公開しましたら、ウェブサイトやTwitter、呉市文化振興財団の情報誌「フレンドリーニュース」などで告知いたします。
皆様どうぞお気軽にご参加ください!

南薫造(1883-1950)

南薫造は、1883(明治16)年に広島県賀茂郡内海町(現・呉市安浦町)に生まれました。子供時代から絵画制作に親しんだ南は、開業医であった父の反対を押し切って画家を志し、1902(明治35)年に東京美術学校西洋画科に入学、岡田三郎助の教室に入ります。卒業後は2年間イギリスに留学し、絵画の研究に励むとともに、高村光太郎、富本憲吉といった仲間と交友しながら研鑽を積みました。
帰国した南は、洋画団体の白馬会や文部省美術展覧会(文展)などを中心に活動し、作品を発表しました。南の理知的で色彩感覚に優れた作品はすぐに評価され、1916(大正5)年には33歳の若さで第10回文展の審査員を務めるなど、早くも画壇での地位を確立していきました。
1932(昭和7)年に、母校である東京美術学校西洋画科の教授となり、南は後進を育成する立場となります。生来穏やかな性格の南は、学生を厳しく指導することはなく、むしろ自由な学びを奨励していました。南教室には野見山暁治、荻太郎、新延輝雄、渡辺武夫らが在籍し、荻太郎は「南先生の教室に在籍しているというだけで、自分たちには心強かった」と語っています。
しかし第二次世界大戦に突入すると、1943(昭和18)年、南は教授職を辞して、東京から郷里の内海へと家族を連れて疎開します。東京大空襲によって自宅とアトリエは焼け、教え子たちの中には戦争によって命を落とす者もいました。
終戦を故郷で迎えた南は、1947(昭和22)年、風早(現・東広島市安芸津町)に疎開していた永瀬義郎や、呉の画家朝井清など、広島地域の芸術家たちと交友を深め、戦後の地域における文化復興活動の先駆けとなった「芸南文化同人会」の立ち上げに携わりました。もう一度中央画壇で活動したい希望を持ちながらも、1950(昭和25)年に亡くなるまで郷里に留まった南は、瀬戸内の風景を愛し、戸外で外気や日光を感じながら、確かな観察に基づいて、対象が持つ本質的な美を描こうとしました。